【雑感】伝承における二無常(白黒無常)と陰陽説中の非対称性について
考察の燃料です。
※范無咎の名称について
范無咎には范無救という表記も見られる。これは咎と救の音が通じる(いずれもjiu4)ことから来るものと思われる。どちらかといえば范無救という表記の方が一般的であるようだ。「(罪を犯したものに)救いは無い」のほうが、以下に記す二無常の役割の区別とも整合的と言えるだろう。
伝承における二無常(白黒無常)について(連続ツイート)
— べるお@帰国 (@bellwo) 2019年3月10日
記事中で引いた論文にもあるように白無常と黒無常の扱いは歴史的には対等ではない。例えば
・白無常だけが登場するお話はあるが逆はない
・白無常の妻は描かれることがあるが逆はない
など。
これは理念上対等の要素であるはずの陰陽が(人間にとっての)価値的には必ずしも対等でないことに由来すると考えられる。
— べるお@帰国 (@bellwo) 2019年3月10日
陰陽は片方が伸びればもう一方が縮み、その循環的・半永久的な伸縮が万物を産み育てる、というのが陰陽説の基本思想。
これは明らかに、「冬至から日が伸びるが、伸び続けるということはなく、夏至に至って一転日が短くなり、再び冬至に戻る」という日照時間の変化からくる類推である。陽は光・昼の、陰は陰・夜のメタファーである。
— べるお@帰国 (@bellwo) 2019年3月10日
この「2つの要素が時間経過で勢力を競い合うが、片方がもう一方を完全に剋するということはなく、伸長はどこかで必ず極点を迎えそれ以降は縮退を始め、代わってもう一方の伸長が始まる」という観念は、実は現代でもさまざまな場面に見られる。
— べるお@帰国 (@bellwo) 2019年3月10日
例えば「禍福は糾える縄の如し」という言葉にも「禍福は交互に訪れる」という循環の思想が見て取れる。ここで重要なのが、禍福のどちらが陰でどちらが陽なのか、である。言うまでもなく、禍は陰で福が陽とされる。循環をしきりに説く『易経』解釈においても陰は小人の、陽は君子のメタファーである。
— べるお@帰国 (@bellwo) 2019年3月10日
要するに、陰陽二気はともに世界を成立させる2つの不可欠な要素とされながら、人間社会においては一般に陽は正の、陰は負の価値のメタファーとして位置づけられているのである。
— べるお@帰国 (@bellwo) 2019年3月10日
陰陽の循環が自然の摂理であることは誰もが認めるところとしても、現実的には福=陽の期間を延ばすことが求められる。極点に至ると衰退が始まることから、「頂点を極めないことが長生きの秘訣である」とするような処世術は今でも聞くところだが、こういった考え方は明らかに陰陽説由来のものだ。
— べるお@帰国 (@bellwo) 2019年3月10日
二無常の話に戻れば、陰を司る黒無常がしかめっ面で悪人に災いをもたらすとされる一方、陽の白無常は常に笑みを湛え幸運をもたらす存在でもあるという。白無常の描写が黒無常に比べ質量で上回るのは、上に見たような事情を考えればある程度当然のことと言えるのである。(終)
— べるお@帰国 (@bellwo) 2019年3月10日